『門前雀羅を張る』という故事成語の意味と由来を紹介!

『門前雀羅を張る』という故事成語をご存じですか?

なんとなくかっこいい雰囲気のある言葉。
ですが、類語は『閑古鳥が鳴く』です笑

まずは意味から見ていきましょう。

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『門前雀羅を張る』の意味とは?

訪れる人もなくさびれているようす。

はい、シンプルですね。
まさに閑古鳥が鳴いていてもおかしくない様子です。

今回も以下からの引用になります。

『門前雀羅を張る』の由来とは?

出典は中唐の詩人白居易の「寓意」にある詩句。
白居易は別名白楽天とも言いますね。
頭の堅い先生だと、白居易にしないと丸をくれない可能性があるので注意です。

賓客亦已散(賓客亦(ま)た已(すで)に散じ)
門前雀羅張(門前雀羅が張る)


訪れる人とてすでに無く
門前には群れ遊ぶ雀を捕る網が張られる

廃墟を思わせる切ない詩句ですね。
読んで字の如く、「門の前に雀羅(雀を捕る網のこと)を張れるくらい寂れている」という故事成語になります。

芥川龍之介や泉鏡花の作品に登場したりするので、覚えておくといいかもしれません。

芥川龍之介が『門前雀羅を張る』を考える

僕はこの故事成語を見ると、黒澤明監督の『羅生門』を思い出します。


門前雀羅を張るような場所で雨宿りしている様子が脳裡に浮かぶんですねぇ。

そしてその『羅生門』ですが、原作は皆さんご存じ芥川龍之介ですね。

芥川龍之介は『侏儒の言葉』(しゅじゅのことば)という評論の中で、この『門前雀羅を張る』について書いています。
ちょっと引用してみましょう。

或新時代の評論家は「蝟集(いしゅう)する」と云う意味に「門前雀羅を張る」の成語を用いた。
「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。
もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑(ほほえ)みは門前雀羅を張るようだった」と形容しても好い筈はずである。
もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか?
中略(海外と日本の私小説のスタイルの違いの話、「通用」の具体例)
しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与えた。
「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じように意外の新例を生ずるかも知れない。
すると或評論家は特に学識に乏しかったのではない。唯ただ聊か時流の外に新例を求むるのに急だったのである。
その評論家の揶揄を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

たぶん読み飛ばす人がほとんどなので、なにを言っているのか簡単に説明します笑

とある評論家が「蝟集する(多くのものが寄り集まること)」という意味で「門前雀羅を張る」っていう言葉を使ったわけですね。
この言葉は中国人が作ったものなので、日本人が必ずしも意味通り使う必要があるわけではないと芥川先生は主張するわけです。

「彼女の頬笑(ほほえ)みは門前雀羅を張るようだった」という使い方をしてもいいじゃないか?というわけですね。

で、海外から輸入した私小説という概念が日本で色々スタイルを変えたように、言葉だって本来の意味以外にも意味を生じるかもしれない。
なのにその評論家が評価されなかったのを見て、芥川先生は「あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ」と言っているのです。

ちなみに蝟集の蝟はハリネズミのことですね。
人がいなくなり寂れた門前にネズミが集まって来る…それを「門前雀羅を張る」と表現したのは、真逆の意味でありながらイメージしやすく面白いです。

「彼女の頬笑みは門前雀羅を張るようだった」が、
あまりにもひどい女で人が散ってしまうほどだった、なのか、
あまりにもきれいな女で人を集めてしまうほどだった、なのかは分かりません笑

要するに言葉の意味が不変とは限らないということですよね。

ただ、僕個人としては「的を射る」が「的を得る」になってしまうような、言葉自体の誤用は今回の件とは話が違うと思っています笑
今の時代、調べれば意味も由来もすぐに分かってしまうので、なかなか別の用法で定着させるのは難しそうですが、芥川賞作家とかが革新的な言葉の用法を思いつけばこういうこともあるのでしょうか。

ちょっと楽しみだったりします。

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