どうして「古典ミステリ」とかいうつまらないジャンルを評価する人がいるの?

タイトルで煽っておいていきなり申し上げるのも勿体ない気がするんですけど、別に『古典ミステリ』に分類される作品がつまらないって主張したいわけではないのです。

※注意
この記事は6千字近くあります。
なので先に明確にしておきますが、『古典ミステリ』批判ではありません。

僕には気になっていることがあります。

超有名作品っていくらでもあるわけじゃないですか。
そういう古典作品には、決まって探偵がいるわけですよね。

ポアロ、ホームズ、クイーン。
明智小五郎、金田一耕助、御手洗潔。

で、こういう古典ミステリをわざわざ読んで酷評する人っていません?

Amazonレビューにもいますし、現実にも通ぶって酷評してる奴っていますよね?

彼らなら言うんじゃないかというセリフをタイトルに持ってきてみました。

僕は彼らに問いたいんですよ。

まさか、古典ミステリの探偵の名前を誰もが知っている理由を理解してないの?

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どうして「古典ミステリ」はつまらないのか

探偵?
と思ったかもしれませんが、探偵に関しては後述します。

それよりもどうして『古典ミステリ』を酷評する輩が現れるのかを考えてみます。
彼らにとっては何がそんなにつまらないのか?

それについてはまず、ミステリというジャンルそのものの説明が必要になります。

ミステリは不幸なジャンル

実はミステリって不幸なジャンルなんですよ。
ここで言うミステリは、探偵小説・推理小説・本格推理・変格推理・新本格とか諸々全部引っくるめてのミステリだと思って下さい。

「変格」という言葉が耳慣れない方に簡単に紹介しておきます。
かつて歴史的に「トリックの面白さのみを追究」した「本格」に対して、トリック以外の様々な要素を織り交ぜた推理小説が「変格」と呼ばれた時期がありました。
江戸川乱歩とかの時代です。

乱歩の『幻影城』だったかな。たぶんその辺読むと本格・変格あたりの歴史が分かります。

変格ものは小酒井不木とか久生十蘭とか海野十三とか、その辺ですかね。
この辺の参考資料が欲しい人にはこんなものをおすすめしておきます。

前置きがだいぶ長くなりました。

ミステリって実は不幸なジャンルなんですよ。
ミステリが好きな方には当たり前すぎることをこれから述べますが、いったい誰にとって不幸なのか、って話ですよね。

主にミステリ作家にとって不幸です。

ミステリって昔から存在しているジャンルですよね。
同様にトリックも昔からいくつも作られています。

お察しの通り、このトリックというやつが曲者なんですね。
ミステリ作家は「古典ミステリ」のトリックを把握していて当然であることを要求されますし、まったく同じトリックがどっかの作品で使われているかもしれないし…というジレンマが絶えないわけです。

ミステリっていうジャンルは、ジャンル自体が一つのシリーズなんですね。

少なくとも読者はそういう視点で見てしまう。

あ、このトリックあの作品で見た。
これ、~のパクリじゃん。
これ、~の焼き直しじゃん。

これがある種の不幸を呼び込んでしまいます。

そうです。
昔に遡れば遡るほど、トリックなんていう機械的なものはつまらなくなっていくわけですよ。

所詮トリックは人が考えた人工的手法です。
現代のミステリ作家は過去のトリックを踏まえて現在のトリックを生み出すのだから、過去のトリックより面白くて当然なんですよ。

過去の作品を読んでないと書けないという点では作家にとって不幸な要素かもしれないのですが、こういうお約束があるので、見方によってはとんでもない幸福と言えるのかもしれませんけれどね…。

ミステリは「つまらなさ」を内包している

実を言うとミステリって必然的につまらなくなるようにできています

ジャンル自体が一つのシリーズと書いたので、気づいた人は気づいたかも知れないし、あるいは元々知っている人もいるかもしれませんが、

ミステリの(特にトリックの)面白さって何で決まると思いますか?

複雑性?
完成度?
オリジナリティ?

いやいや、こんな要素追究したって三文小説すら書けませんよ。

答えは一つです。

読者の知識量で決まります。

は?と思いますか?

読者がどれだけトリックを知っているかで、そのトリックが面白いかどうか決まるんです。
何かおかしなこと言ってますか?

つまり、個人によって面白さは変わりますし、もっと言うと…。

ミステリは読めば読むほどつまらなくなるジャンルです。

つまらなさを内包しているとは、こういう理由からですね。

ちなみに偉そうなこと言いましたが、これは全部が全部僕の論ではありません。
直木賞作家でもある北村薫の『謎物語――あるいは物語の謎』で触れられているものですね。

興味があればどうぞ。

「古典ミステリ」がつまらない理由

もうわかりましたよね。

本読もうぜ!
ミステリ読もうぜ!
じゃあ、まず古典ミステリいっとく?っていう人はあまりいないんじゃないでしょうか。

不幸にもそうした経緯で読み始めた人が、読み切れずに挫折する例もあるにはあるんでしょうね。

今の世の中、漫画にしろ映画にしろアニメにしろ普通のエンターテイメント小説にしろ、ミステリ的要素はいくらでも盛り込まれているわけです。

だから大抵の読者の知識なら、『古典ミステリ』を遥かに凌ぐ面白さのトリックをいくらでも知っているのです。

だって古典って何十年前のものですか。
そりゃ黎明期に比べたら今の作家どころかアマチュアだって面白いトリック創造できちゃいますよ。
創り手側の知識量も段違いですからね。

こういうわけなので、「どうして『古典ミステリ』とかいうつまらないジャンルを評価する人がいるの?」という言い分も分からなくはないわけですよ。

まあ、一つ思うことがあるとすれば。

彼らは読み方を知らないんだなあ、ってことくらいですかね。

「古典ミステリ」を読むべき理由

上記を読んで「おかしいぞ」と思った人は鋭いです。
もしかして、あなたは探偵ですか?

ええ、決定的におかしなことがあります。

ミステリが一つのシリーズであるとすれば。
読めば読むほどつまらなくなるのがトリックだとすれば。

おかしいですよね?

何で今でもミステリ小説が生み出されているんですか?

今なおミステリが流行するのは何故か

実はこの議論って今に始まったことではなくて、昔からあるものなんですよ。

トリックだっていつかはやり尽くされてしまうだろう、と思うじゃないですか。

その通りです。

トリックなんてとっくの昔にやり尽くされて、もう何十年も前に枯渇したと言われています。

それで衰退していったミステリを再び盛り上げることになったのが「新本格」と呼ばれる世代なんですよね。

綾辻行人とか有栖川有栖とかです。
今なお大人気の作家じゃないですか。

この世代はトリックを使用した正統的な推理小説(読めば読者も推理できる小説)を書きながら、ある一点においてミステリを次のステージへ引き上げました。

ちょっと待って、トリックは枯渇したんじゃ…。

はい、枯渇しました。

きっとどのミステリを読んでも類似のトリックを古今東西どこかの小説に見出せるでしょう。

だから、トリック以外のものが面白さとして存在しています。
ガチなミステリホリックとか評論で食べて行かなきゃいけない人たちがどう思っているかは、微妙なところですけれど。

ちなみに新本格の隆盛あたりの歴史については…。
どれだったかな。
(笠井潔の評論ってタイトルから内容を思い出すの難しいんだよなあ)

うん。
笠井潔の『本格ミステリの現在』が具体例もあって分かりやすいと思います。
新本格以前の流れも触れられているはずですしね。

ミステリのあまり語られない側面

ミステリの評論や歴史の説明となると、どうしてもトリックとかそういう表層的なところに目が行きがちなんです。

そもそも文学の評論って、文学研究であるはずなのにあまり文学性を論じることができないジレンマを内包しているんですよ。
だって、今のトレンドって「都市論」の再燃とか作中に登場する川の考察とか、文化論的な側面を持ってませんか?

話が逸れました。

ミステリもこれと同じで、記号的な部分を掬い上げて歴史的位置づけを見出していくとか、古典と比較してどうだとか、そういう手法を取らざるをえない。

そこで冒頭に挙げた「古典ミステリの探偵の名前を誰もが知っている理由を理解してないの?」です。

もちろん「探偵論」みたいな評論はいくらでもあるわけですが、
それって「どういう推理の手法を用いるのか」「どんな論理展開なのか」とか、「その後に登場した〇〇という探偵が~」みたいなそういう話になっちゃうんです。

話戻るんですか、探偵が作品という枠を超えて有名になることがなければ、きっと『古典ミステリ』なんて読まれることはなかったと僕は思うんですよね。

その理由が、まさにミステリにおける「文学性」なんです。

文学性を演出するに当たって、名前というユニークな記号は絶対に必要ですし、トリックに頼れない古典ミステリが何に面白さを見出すかと言ったら、それが文学性だってことなんですね。

だから「古典ミステリの探偵の名前を誰もが知っている理由を理解してないの?」の答えは、「文学性を楽しめよ」って言いたいわけです。

文学性って何だよ!?

次の項ではそれを説明します。

ちなみに記号記号言っててもだいたい分かるとは思いますが、詳しく知りたい方にはこちらの参考文献。
『記号論への招待』。これ読んでない文学研究者はいないです。

「古典ミステリ」における文学性について

文学性だとかモチーフだとかいう用語はひどく曖昧で伝わりにくいものです。

作家のエッセイやインタビューなどを読んでも、「私はこういう意味だと思っています」という文章は目にしますが、作家と作家の間ですら同じになることはまずないでしょう。
でもまあ、同じ表現はしていませんが、だいたい同じ内容になっているとは思います。

何を以て文学性とするの?という話ですが、一般的には時代を経ても廃れることのない「普遍性」をそのまま文学性に読みかえる人が多いようです。

曰く、「人間関係」「恋愛」「哲学」「思考」「差別」「雰囲気」などなど…。

つまり、時代や読者の知識量によって廃れてしまう「トリック」は文学性に当て嵌まらないということですね。
逆に言えば、古今東西あらゆるミステリを読んでなおミステリを読みたがるミステリホリックにとっては、この文学性に面白さを見出せるからこそ、ミステリを面白いと言って読み続けることができるわけです。

それもただの文学性じゃありません。
ミステリという超大で常に変化していく特異なジャンルにおいて、唯一不変で普遍の要素であるという圧倒的に特殊性を持った「文学性」です

ここまで来るとフェチです!倒錯的です!
でもそこにこそ、唯一無二の面白さが存在する!

そしてその「文学性」は、「普遍性」は、いったい何によって表現されるんだ?

はい、まさにそれがキャラクター性…「探偵」という尖った個性ですよね。
その他にも作品の雰囲気や、探偵の考え方や、登場人物たちの関係などなど…人の感情を揺り動かすすべての要素が文学性です!

こうしたものは時間が経っても絶対に廃れません。
だから何百年も前の文学だって、未だに読まれるわけですよね?

そして文学研究が文学性を論じることができないジレンマというのはここにあります。

だって、「人間関係」とか「恋愛」とか「哲学」とかの普遍的な文学性って、

文学研究者の専門外だし!

それだけならまあ勉強しろって話なんですが、普遍性は普遍的なだけあってとっくに語り尽くされています。
だから論じ方に限界がきてしまうから、作家論、作品論、テクスト論、文化論みたいに研究もトレンドが移っていくわけですね。

逆に言えば、ミステリというジャンルにおいて、この普遍性が描けてない作品は、古典だろうが現代だろうが吐き気がするほどつまらない作品になるってことです。

これは一般的な小説にも言えるんですけどね。
設定とかトリックとかプロットとか、そういう表層的な要素ばかり追究しちゃうのがアマチュアですって誰か言ってました。
ハリウッドの脚本家の誰かだったか、あるいは黒澤明だったかもしれません。
覚えてる人は教えてください。

まとめ

要はどこに視点を置いて読むのか、が重要になってきます。

古典ミステリって、ミステリという観点だけで読んでしまうと、本当にクソつまらないんですよ。
ところがこれが「普遍性」や「文学性」をどう演出・表現しているかっていう視点で読めるようになると途端に面白くなる。

シャーロック・ホームズのシリーズ面白いじゃないですか。

原作も面白いですけど、ドラマも面白いですよね。
トリックやプロットも確かに面白いとは思いますが、ミステリホリックからしてみるとそれだけならつまらないと思います。

にも拘わらず未だに映画やドラマでリメイクされる理由は?

ホームズとワトソンの「友情」という普遍性がウケてるからですよね。
ホームズvsモリアーティみたいな敵対関係だって「人間関係」ですよ。

だから面白いし、作品にオリジナリティが出てくるんです。
トリックは有限でしょうが、普遍性の表現の仕方は無限ですよ。
語り継がれる作品は、この辺りが他と違って優れているのです。

だって普遍性から目を離したら、分かりきったトリックに、冗長な説明に、馬鹿な推理(言い過ぎか)に、大味の演出(これは時代性もある)。

こんなもの見せられて何が楽しいんですか?
最近の作家ならもっと面白いもの書きますって。

どうして古典ミステリが読まれるの?
どうして古典ミステリを読んだ方がいいって言う人がいるの?
どうして作家は人生の一冊に古典ミステリを挙げるの?

これがすべて「文学性」「普遍性」という言葉で片付くわけですね。

はい。
ずいぶん熱が入っちゃって長々と書いてしまいました。

お付き合いいただきありがとうございました。

みんなも古典ミステリ読むといいよ。
フランス最古の古典ミステリと呼ばれる『ルルージュ事件』なんかはオシャレで面白いよ。

サムネ出典