痛烈な社会批判?「大道廃れて仁義有り」の意味にある背景

なんとなーく「荒廃した世の中にも人の仁義は存在する」みたいな、性善説めいた良いお話なのかと思いきや、どうも僕の思い込みだったようです。

今回は、意味よりも由来の方にびっくりしました。

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「大道廃れて仁義有り」の意味

人の踏み行うべき道徳が自然に行われていたとき、取り立てて仁義を言う必要は無かったが、後に道徳が廃れて仁義が提唱されるようになった。仁義が必要なのは、大道が失われたからである。

だいたい思っていたとおりの意味でしょう。

ちなみに大道とは、「人のすべき正しい行いの道」のことですね。
まあ倫理観とか、モラルとか、そのような意味です。

「仁義」が必要だと提唱されるのは、モラルが失われたからだ、そう言っているわけですね。

引用はこちらの本からです。

「大道廃れて仁義有り」の由来

出典は『老子』十八章の言葉。
あーやっぱり老子かーと思った方もいるのでしょうね…。

「大道廃れて仁義有り(大道が廃れて仁義が説かれるようになった)。
智恵出でて大偽あり(人間が知恵を働かせるようになって、大きな作為が行われるようになった)。
六親和せずして孝慈有り(一族が仲むつまじく暮らすことができなくなって、親孝行や子どもに対する慈愛が言われるようになった)。
国家昏乱して忠臣有り(国家が乱れてきたために、忠実な家臣が目立つようになった)」
と述べ、儒家が称賛する事柄は、人間本来のあり方ではないと批判している。

儒家は孔子で有名ですよね。

仁義を提唱しているのは儒家なのです。

簡単に言えば「目上の人に礼を尽くして、親孝行して、とにかく無欲に他者をリスペクトしようよ」っていう思想です。

これに対して老子が、「そんな仁義なんて当たり前なもんを主張しなきゃいけなくなったのは、人々からモラルがなくなってしまったからだ。こんな不自然なものは大道ではない」と反論しているわけです。
親孝行も忠実な家臣も、皆が皆、当たり前にそうであれば褒め称える必要もないくらい自然なものだということですね。

そして老子は批判するのです。

儒家が理想とする親孝行の子どもや忠義な家来のいる(大道の失われた)世の中は、不幸な世の中である」と。

本当にそうだろうか?というのが今回のテーマです。

「大道廃れて仁義有り」の世界は本当に不幸?

老子さんの主張の何がおかしいって、「天が人の上に人を作っちゃってる」ところですよね。

大道は「上下関係」を大前提としていて、人間は生まれながらにして不平等が自然だって言ってるんですよ。

いやまあ、確かにそれが社会性というものなのかもしれませんが、「人が人に従って当然」という考え方は、支配者の思想ですよね。
なので、今の世の中では、儒家の思想も「大道廃れて仁義有り」もあまり共感を得られないかもしれません。

そもそも、こんなことで人間の幸せが決まるんなら、生まれた瞬間に人は「不幸」です。
もう、思想が存在してしまっているこの世の中自体が。

既に出来上がっている階級構造の中に放り出されてしまうわけですからね。

いい言葉っぽい「大道廃れて仁義有り」でしたが、こうして考えてみると、なんだか時代錯誤を感じてしまう言葉でした。
儒家の批判をしなければいけないのは、老子が少なからず儒家から影響を受けているからですし、大元を辿っていけばきっとどこか一つの思想に辿り着くのでしょう。

現代は情報の選択肢が無数にありますし、取捨選択も個人の自由です。
そういう意味で手本にするのなら、逆説的な思考法の一例になる故事成語ではありますし、あまり意味を重視する言葉ではないのかもしれませんね。

鵜呑みにせずに調べてみることは大事ですよ。